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私の主人は私です

それじゃ昭和に逆戻り

 先日、朝のTV番組で、埼玉県南部に暮らす祖国を持たない世界最大の民族と言われるクルド人コミュニティが取り上げられていた。

 

その中で、日本語学校の男性教師が、「日本人社会では、はっきりNOと言わないように」と教えていた。

おー、NO、それじゃあ、昭和に逆戻りじゃないか!

平成のはじめ頃、国際結婚をした横浜の女性グループでアサーティブトレーニングをした時のこと、《日本社会でははっきりノーと言ってはならない、特に女性は従順であれ》と日本の慣習に従い、「すみません」をはじめとする窮屈な日本語を覚えた在日外国人女性たちが、どれだけ心身をすり減らし、家族関係や子育てに苦悩していたかを、目の当たりにした。


その中には、支配的な日本人男性と離婚後、女性を尊重するソフトな外国人男性と再婚したものの、気がついたら前夫と同じ《日本のオヤジ》になっていて、相手じゃなくて自分のコミュニケーションを変えなければと参加した日本人女性もいた。

これは、子ども、女性、障害者、在日外国人、先住民、非正規雇用者など、パワーレスグループが理不尽に背負う生きにくさだ。

かつて思春期の頃に読んだ指揮者岩城宏之の弟子への助言を思い出す。岩城宏之は海外に出る弟子に「欧米で誘われたり頼まれたときに躊躇するなら、とりあえず、NOと言う。彼らは、後からYESというのは受け入れるが、YESと言って実行しないのは許さないから」と言って送り出したと。その一節がなぜかずっと心に残っていた。


それは、西洋音楽界でアジア人として活躍の道を拓いた音楽家が同様の苦労が待ち受けるであろう後進に向けて当事者としての体験を語った言葉だ。

だが、冒頭の日本語学校の教師は、日本人の男性だ。パワーグループがパワーレスグループに卑屈な対処を教えるのは、どうなのよ。

それこそ、そこで、日本語のアサーティブネスを伝えて欲しいものだ。

 

繰り返されるみずほ銀行システム障害の原因究明でも、金融庁が「言うべきことを言わない、言われたことだけしかしない企業風土の改善」と指摘したそうだけど、ハイテクだって、動かすのは生身のコミュニケーションなのだ。

 

 

パワーレスのパワーを奪う教育

 

パワーレスグループは、パワーグループによって、無駄に無意味な表現教育を受けている。

現代日本の性的マイノリティの権利擁護の歴史をまとめた新刊「LGBTヒストリー」(永易至文=著)の中で、著者は、性的マイノリティーの多くは、小学校・中学校時代に自身のセクシュアリティを自覚するものの、性的マジョリティの親に育つことによって、親が味方にならず、孤立し、不登校、自殺企図、自傷、精神疾患などの思春期危機に陥ると記している。

 

昨年暮れに69歳で他界したフェミニスト教育者ベル・フックスも「わたしが生まれて初めて抵抗した最強の家父長主義者は母だった…わたしはまだ十代で、落ち込んで死にたいとさえ思っていた」と書いている。

 

そう、それがどんなに理不尽で機能不全であっても、それに従うにしろ、抵抗するにせよ、心身不調になったり、親密な関係が壊れたり、暴力の被害者や加害者になったりしても、「私は価値がないから」「私が悪いから」と個人化されるから思春期は、とほほ…なのだ。

 

永易さんは著書「LGBTヒストリー」の中で、こんな教室の風景を書いている。

 

「はーい、男子は前、女子はうしろに並んで〜」

「男子は机を運んで、その間に女子は飾り付けしてください」

「男同士でくっついて、おまえらホモか!(一同爆笑)

 

日常の明るい教室の中で、容赦なく降り注ぐ性差別、ゲイフォビア、ジェンダーバイアス。それは、女性、セクマイだけでなく、すべての子ども・若者たちの感受性を攻撃し、隠れたカリキュラムとして侵入する。

 

「息苦しくてもはみ出るな、同調せよ」と。

 

悲しいことに、この傾向は、長い間、抑圧の歴史を持つコミュニティほど強固で、パワーグループの保持する固定観念があるがままの思春期の若者に無言のアツをかける。

 

けれど、そんなことに気づかないほど、疑うことを知らないマジョリティはおおらかにも見える。なんと残酷なことだろう。

 

米国の公民権運動の流れから誕生したアサーティブネスは、自分たちが受けてきた教育の構造を見直し、学びほどき、奪われたものを回復し、エンパワメントするものだ。

 

抑圧の構造を理解し、学びの関係性を変えないと、「ジェンダー」という言葉ですら曲解し、「私の身につけた女らしさはいけないこと」「自己信頼のない私はダメだ」と捉えては不要な罪悪感や過剰反応につながる。

 

 

私の主人って、だれ

 

この機会に、思い切って会報で打ち明けるけど、この数年、グループワークの中で、夫のことを「主人」と言うミドル女性が増えている。

 

ずいぶんも前の時代に「主人」の呼称は決着ついたものと思ってきたのだが、なぜだか最近じわじわ目立つ。

 

その都度「言葉は大事だよ。選ぼう」「私たちの世代の前には、家族の主人からの解放に力を尽くした女性たちがいるんだ」と言うこともあるけど、話の流れの中では、そこで立ち止まることができない場合もあって悩ましい。ぴえん

 

右の図は、横軸に年齢、縦軸に時代をとった座標上に、人数が多い団塊世代(1948年生)、その子どもの団塊ジュニア世代(1972年生まれ)、そしてデジタル・ネイティブ世代(1995年生まれ)の3世代を置き、おもな出来事や教育政策などが書き込まれている。

 

縦の点線は20歳のラインを示している。(舞田敏彦氏/教育社会学者作成)>>>詳細記事「NEWSWEEK」

 

引きこもりの若者たちとその家族に強固な性別役割意識を感じることがあり、この図を精神保健福祉センターの家族相談会や家族ケア講座の資料として使うようになった。

 

自分の育った時代と先代、次世代を相対化してみてほしい。

 

人間という種でなければ適応できなかったかも知れないほど大きく変容した社会状況と同時に、変わることなく引き継がれてきた家族をしばる意識も読み取れる。

 

現在のミドル世代が子ども期を過ごしたのは、昭和の終わりで、性別役割分業が固定化し、受験競争がと激しかった。

 

いま、その世代が、「主人」に呼応するように、自分や相方を「○○の嫁です」と呼ぶのも最近よく耳にするようになった。

 

結婚を機に配偶者を「主人」と呼び、自分は「嫁」と称している人は、どのくらいいるのだろうか。

 

皇室を出てニューヨークへ移住した女性は、お連れをなんと呼ぶだろう。主人とは呼ばないだろう。嫁とは呼ばれないだろう。昭和も平成も過ぎた、令和だよ。

 

 同性婚の立法に向けて、「夫婦」だって、「夫夫」「婦婦」だから、平仮名で「ふうふ」にしようかとか話題になるのだから、ちょっと考えてみよう。

 

カジュアルな場なら「相方」「パートナー」「ツレ」。冠婚葬祭やあらたまった場なら、「つれあい」かな。接客業でも「ご主人様」「奥様」等と属性で呼ばず「おつれあい」「おつれ様」と呼ぶように、第三者をさすなら、「おつれあい」「相方さん」。

スタジオ悠でなら「◉◉(名前)さん」「相方」「パートナー」「ツレ」「つれあい」「夫」「妻」…いろいろある。

 

1990年代に高校生がルイヴィトンとかグッチを日常で使い倒して、ブランドイメージをぶっ壊したように、「主人がー」「嫁がー」って、あえてカジュアル使いしているのかな?とも思ったりもしたけど、話の内容を聞くと、家制度や妻・嫁役割を引きずって、葛藤し、次世代に伝播しているようなので、やはり言葉は大事だ。

 

さらに、日々の無償労働で家族と社会を支えていても、「働いてなければ価値がない」「稼がないから自立していない」「仕事が何より優先」という「シゴト依存」にハマることにもなる。呼び方以上に、それは問題だ。

 

そういう時に、とりあえず「なんでやねん! 」「ええかげんにせーよ!」「どないやねん!」「しらんがな! 」と、どついてつっこむか、せめて心の中で呟き返すチカラを様々な権利擁護運動は獲得してきたのだ。

その流れに、フェミニズムやアサーティブネスがある。

 

かつて海外協力専門家の友人が「バングラデシュの子どもたちは、働かなくては生きていけないけれど、それでも学校へ行く。それは北の国(先進国)に騙されないために学ぶことが必要だから」と言った言葉を思い出す。

 

そう、この情報の嵐の中では、権力の傍若無人さにも詭弁にもフェイクにも陰謀論にも乗っからないクリティカルシンキングの学びと感情リテラシーが必要だ。

あわせて、白か黒か、全か無か、に陥らないニュートラルな考え方も必要だ。

 

 

前出のベル・フックスはアフリカ系女性として日常的に虐待のある貧困家庭で育ち、人種分離の公立高校から教師も生徒も白人が圧倒的多数の白人黒人共学に移ってから激しいストレスに見舞われた。

 

人種・性・貧困差別を受けた思春期の経験を基にわかりやすい授業や執筆活動を続けてきた。

 

名著フェミニズムはみんなのもの 情熱の政治学」の中で、「AA(アルコール依存症自助グループ)を効果的に真似したフェミニズムのコンシャス・レイジング(CR)は各地で開かれ、階級・人種・性別に関わりなく、全ての人にフェミニズムのメッセージを伝えるだろう」と語っている。

 

CRとは、1960年代後半の米国の公民権運動の中で女性たちが各地に小さな語り場をつくり、そこで個人的な体験を分かち合い、その問題の根っこに家父長制社会の構造的問題があることを理解し、自分自身の受けた差別に気づき、「個人的なことは社会的なこと」と意識啓発していったセルフヘルプだ。

 

その後、日本でも各地で行われ、25年前からスタジオ悠で始まった女性プログラムにもつながっている。

 

ベル・フックスはさらに言う。

 

「私たちはいまだに、フェミニズムの理念によって設立された少女少年のための、あるいは女性や男性のための学校を持っていない」

 

「フェミニズム運動は家族を大切にする。子どもたちへの家父長的な支配を、それが男性によるものであるにしろ、女性によるものであるにしろ、なくすことが、家族を子どもたちが安心していられる場にする唯一の道である。そういう場でこそ、子どもたちは自由になれるし、愛を知ることができる」

 

 

日本の高校生たちのアクション

 

2020年末、兵庫、京都、岡山の女子高生らがSNSで呼び掛けた「ファミリーマートの『お母さん食堂』の名前を変えたい!との署名活動は大きな話題を呼び、結果的に7561人の賛同者が集まった。

 

立ち上げた女子高生は、「お母さんが食事をつくるのが当たり前」というアンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)を助長しかねないと、学びの中で気づいて、行動した。

 

すると、いかにもな反発を浴びることになった。

 

ü  「それなら、男らしいお父さん食堂を作ればいいじゃないか」→あるある、リバーシブル思考、逆は真なり。

 

ü  「お母さんは誇りを持って毎日食事を作ってきたのに!」→高校生の主張は母を傷つけるものではないのに、《私だってガマンしてきたんだから》という私怨がねじれるのか、女性・子どもの立場より男・親に立つ方がラクなのか、男社会の都合を代弁する「名誉男性」となる

 

ü  「女は感情的だ」←女性やパワーレスグループがものをいうと感情的と非難される。感情と感情的は別もので、そういうこと言うことが感情的なのだが、正当な自己表現が感情的であると挑発を受ける

 

・・・だいたい批判のパターンは決まっていて、そうしちゃ、パワーレスグループは分断される。

どっこい! それも含めて、学ぼう!

 

高校生の訴えは、波紋をよび、ファミマは、ジェンダー、国籍、年齢など「家族のあり方」が今まで以上に多様になる中で、あらゆる家族形態にある人が手に取れるように、在日外国人が日本語がわからなくても商品が区別できる写真を採用したり、変革にチャレンジし、2017年に始まった「お母さん食堂」を廃止した。

 

その後、コロナ禍で落ち込んだファミマの売り上げは2021年に入ってからじわりと復調したそうだ。

 

ちょうど同じく2017年に始まった「Me Too」運動は、性暴力とハラスメントの被害経験をハッシュタグをつけてオンライン上に投稿するキャンペーンとして、これまで被害に遭っても沈黙せざるを得なかった人々の間に連帯を生み出した。

 

その頃からか、ティーンズポストの思春期相談でも、性暴力によって権利侵害を受けたと正当な怒りを訴える、これまでにないトーンの相談が増えてきた。

 

それでも、いまーだに「ファミマは女子高生に屈したわけではない」だの「モンスタークレーマーによる言葉狩りだ」だのと批判は尽きない。

 

 

若い世代が新しいアクションを起こすとき「足を引っ張る大人」の問題は深刻だ。

 

 

 

 

だっからさ、権利擁護とセルフケア

 

ティーンズポストは30年間、子どもの権利擁護のために欠かせない大人の精神保健を事業テーマの一つにしてきた。

 

子ども若者は、前世代ができなかったことを実現してく存在なのだから、大人は傷ついた子どもをケアしないとスネていじける。

 

こういうセルフケア精神は、昨日今日に始まったことではない。

 

ホームレス状態にある人や生活困窮者に対して雑誌販売という仕事を創る社会的企業の雑誌「ビッグイシュー」(2022年4月17日付)に、ニューヨーク大学音楽学部ブリジット・コーエン教授による『コロナ禍、戦争…混乱の時代に取り入れたいオノ・ヨーコの「セルフケア」精神』という記事が出ていた。

 

「自分自身の心や体の健康を大切にする「セルフケア」。その起源は、医学研究や1960〜70年代の黒人解放運動など多岐にわたる。ここ数十年でその注目度は高まり、美容業界やフィットネス業界も、積極的にマーケティング戦略に取り入れている。

 

(中略)オノ・ヨーコにとってのセルフケアは、スパでトリートメントを満喫するといったものではなく、心に集中し、行動するエネルギーを集め、想像力と外の世界をつなぎ、自身を力づけることだった。

そのために、ユーモアや遊びを通して思考を刺激するということを試みた。

 

(中略)政治的混乱や経済的不安の時代にあって、日々の生活で取り入れやすいアートのあり方は、精神を保ち、たくましく生きるうえで役立つだろう。

 

そして、想像もしなかった方法で過去の苦しみとつながることができるだろう。

 

そんな世界との関わり方を取り入れることで、日々を健やかに過ごしやすくなり、未来への素晴らしいビジョンを得ることができるかもしれない」

 

ピンチはチャンスと言うけれど、人は混乱の時ほどイメージを描き創造的な変革を成し遂げるものだ。

 

苦しい今から抜け出す変化のイメージが描けなければ、それがどんなに苦痛な状態でも機能不全から脱しようとしない。

あるいは、現状維持で一発逆転に賭けるので、努力の方向が的外れとなる。

外目からはよく見えても、実態はお粗末なことになる。

 

インスタ映えのように、他人の目から幸せに見えるものを追いかけても、自分が実感する幸せのイメージは別だ。取り繕って、不都合なものは見ないフリしてフタをして、“映え”を求めるんじゃなくて、リアルに幸せを感じたい。

 

 だから、気付いたら、認めようじゃない。手放して、やり直そうじゃない。

 

認めたものは変えられる。アサーティブネスは、正しさではなく、言い直すことややり直す関係修復力を応援する。

 

家でも教室でも何処でも、問題があってもOK、認めてOK、やり直しOKの文化を作ろうじゃない。

 

 

アサーティブネス、セルフケア、デモクラシー…それは日々の失敗や間違いから実り、成熟していく。

 

 

互いの自由を求めて影響しあい、たゆまぬ意識変革を楽しみながら、引き続き、声にしていこう、そう思う30周年である。

 

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コメント: 3
  • #1

    ひとみ (土曜日, 16 7月 2022 11:56)

    タイトルが、
    「私の主人は私です」と、あって「え?当たり前じゃない」
    って思った。
    けれど、私がこの会報に書いたように、60年間の今までの人生〜私の主人は、私ではまったくなかった。

    自分を見失って生きてきた状況を認めて、精神的に混乱した。これから現実の世界で、愛猫
    ココ社長と、やっていくためにはどうしたらいいんだろうと思って途方に暮れてジタバタしています。

    困ったなぁ〜ピンチはチャンスになるといいなぁ〜そんな事出来るのかなぁ。

    なんか、いい知恵は無いかなぁ〜

    "ユーモアや遊びやアートは、精神を保ち、たくましく生きるうえで役立つ"んですね。

    出来る事を小さくても、やってみようかなぁと思いました。

  • #2

    八巻香織 (日曜日, 31 7月 2022 20:49)

    ひとみさん コメントありがとう。
    ひとみさんは、「今までの人生〜私の主人は、私ではまったくなかった」と認めた。
    そこから「どうしたらいいんだろうと思って途方に暮れてジタバタして」「なんか、いい知恵は無いかなぁ〜」と考えて、「出来る事を小さくても、やってみようかなぁ」、、って、12ステップ踏んでますね。す・ご・い〜〜〜〜!!

  • #3

    ひとみ (火曜日, 02 8月 2022 19:33)

    リアクションをありがとうございます。嬉しいです。

    最近やっているのは、朝、ラジオ体操をする。

    喫茶店で気持ちを書く。(30分)

    先日ティーンズポストさんの臨床美術のアート講座で習ったパステルで気持ちを描く。

    川越市の温泉に行く。
    (ラジウム湯が、神経衰弱に効果あります)また、高濃度炭酸風呂や、ジャグジーなどもあります。

    カラオケボックスで歌う(30分)

    料理のマンガ本を見ながら自炊チャレンジしてみる。サラダチキンや、麻婆ナス丼、ニンジンのマリネなど作ってます。

    スポーツジムで筋トレする。

    感染者が急増して、一時的に、カラオケやスポーツジム通いをやめたら、面倒くさくなってやる気が無くなってしまいました。ので、再開しました。

    人が混んでいる場所は、あきらめて、すいてるところを探します。

    私の小さなできることでした。